ドレス「La fin du poème-最果ての詩」のプリントではFrancesco Nolettiの静物画と、17世紀オランダの政治家コルネリス・デ・ウィットの肖像画が使用した。
1.Francesco Nolettiとオリエンタルカーペット
画家Francesco Nolettiはマルタに生まれ、1640 年から1654年まで主にイタリアのローマで活躍していた。作品ではよくNoletti:「Il Maltese(マルタの人)」という意味の署名をしていた。
Nolettiの作品で代表的なモチーフは華やかで異国情緒溢れのウシャック絨毯である。 14世紀以降西欧では、ペルシャ、アルメニア、アゼルバイジャン、北アフリカなど中東起源の絨毯を装飾として絵画作品に用いられていた。カーペットは視覚的重要な人物に注意を引く役割があるため、ルネサンス期には、キリスト教の聖人をカーペットの上に置く絵画作品が多くあった。その後中東のカーペットは世俗的な意味が入り、徐々にオリエンタル、贅沢、富、または地位を表す意味が含まれ、王族と貴族と裕福な商人たちの肖像画でも登場し始めた。
2. 名門のデ・ウィット兄弟
ドレスの左側の絵はオランダ黄金時代の画家、コルネリスビスコップ(Cornelis Bisschop)の作品である。画面の中央に、天使や白鳥に囲まれている男性は17世紀オランダ共和国の指導者ヨハン・デ・ウィットの兄コルネリス・デ・ウィットです。コルネリスは名門デ・ウィット家に生まれ、ドルドレヒト市長、ホラント州の副総督まで登り、弟の補佐となりました。
だが当時オランダはイギリスとフランスから攻撃され、デ・ウィット兄弟が誤った判断で戦機を失った。そのため二人は政党内と民衆の間で酷い反感を買い、後にコルネリスはオランダ総督暗殺の冤罪が押し付けられ、監獄で 惨酷な拷問され、追放処分を受けた。優しい弟のヨハンがすぐに監獄に出された兄を迎えに行きました。
3.虐殺されたデ・ウィット兄弟
民衆たちは、オランダが戦争で受けた失敗・屈辱・不満をすべてデ・ウィット兄弟にぶち込み、監獄に乱入し、無力な兄弟二人をその場で虐殺した。しかし暴徒たちは満足しなかった。彼らはデ・ウィット兄弟の死体に腹裂きの刑を与え、兄弟二人の内臓を抉り出しそして食べた。一国を率いるものがこのような終末を迎えたとは、なんと悲しい恐ろしいことでしょう。この残虐な行為に対して、哲学者バールーフ・デ・スピノザも「最悪の野蛮人だ」と強く批判した。
この事件に対してオランダ画家ヤン・デ・ベーン(Jan de Baen)は「デウィット兄弟の死体」という絵画作品を残し、フランスの小説家アレクサンドル・デュマ・ペールも1850年に書いた小説『黒いチューリップ』でも言及されました。
デ・ウィット兄弟を記念するため、オランダドルドレヒト市の中心部に二人の銅像が建てられました。銅像で兄のコルネリスは右手を弟が座っている椅子に掛け、静かに傍に立ち、悲しい表情で前を見つめていました。隣の弟ヨハンの顔が下に向き、何かを考えているように見えます。ここは彼らが生まれそして愛しの故郷であると同時に、彼らを埋葬した土地でもあります。今の彼らはこの土地の見守りとなり、そんな悲しい所に対して、果たしてデ・ウィット兄弟はどう考えるか、私たちはもう知ることはできません。